藝大入試論考 建築科

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高校中退という選択肢

 

※この記事は、少しの冗談とそこそこの本気でできています。

 

 

 高校生の君へ

 

学校は楽しいか?

心の底から楽しいと言えるなら全く構わないんだ、この記事は読まなくていい。でも正直、正直だるい、つまらない、苦しいと思っているなら、僕は君に悪魔の囁きをしたい。

学校なんてやめたほうがいいよ──

…と。

僕(大西)は何を隠そう高校を2年の末で中退している。直接的原因はかねてよりの不登校による出席日数の不足だが、間接的には低レベルな授業や人間関係の枯渇によるうつ状態だった。美転をしたのもその2年の末だ…これ以上“勉強”をするエネルギーは無いと悟ってね。結果として僕は学校のない残りの1年を有意義に使って、藝大に現役(厳密にはこれは現役高校生の略なのだろうけど)合格した。余裕で。

ああ、この記事が共鳴する層は高校生のうちでもごく僅かだろう。しかし僕はそれがたった1人であったとしても、いやそうであるほどますます情熱的にこの記事を書かねばなるまい。僕は、なんとなく、君に何かを見込んでいるんだ──

すべての前提として、高校を卒業しなくても大学進学はできる。大人はあまり教えてくれないが、日本には高等学校卒業程度認定試験;通称高認という素晴らしい制度がある。少し解説すると、文部科学省が毎年夏と秋に「誰でも全科目クリアすれば高卒資格(→大学受験資格)をあげますよ」という試験を開催しているのだ。これが非常に(少なくともセンターをそこそこ取ろうとしている君にとってはその3倍くらい)簡単で、定義レベルのマーク問題を4〜5割正解すればクリア、おまけに高1の単位を取っていれば科目免除で残り2科目ぐらい受けるだけでOK。まず落ちることはない。それで高校3年分の登校、授業、試験勉強その他もろもろをチャラにできるという、そういう仕組みにこの国はなっている。

その上で、君が敢えて高校に通う理由とは何だろうか?

“現役生は学校で忙しいから入試対策の余裕がとれず、不利な中で戦わなければいけない”という風潮がある。不条理だと思わないか?現代の高校がこれほどまでに大学受験産業に阿っているにも関わらず、学校は多くの受験生の足枷となっている。 実技対策を要する藝大受験において、この足枷はますます重い──

まず一つには勉強だろう。建築科は特に、センターの対策は侮れない。しかし勉強ができる人にとっては、学校はちっとも勉強するための場所ではない。学校は言ってみれば勉強しない人に無理やり勉強させるための構造であって、自分でできる人は、一律カリキュラムの集団講義などというクソ非効率な枠組みに頼らずとも、塾や参考書でフレキシブルにやればよい。公立や中堅私立が直前期になるほどミチミチに講習を詰め込むかたわら、僕の(また違う理由で)中退した私立中高一貫は高3後期全休で1/3ぐらい東大に入れている。そういうことなんだよ。

そもそも、業界総出で祀っている“学力”なる指標にどれだけの普遍性と人間性があるのだろうか?“(受験)勉強”をする意味、に対するまともな説明を僕は聞いたことがない。この先の議論には茂木健一郎氏の以下の講演が素晴らしい資料になる。ぜひ聴いてみて。いや、受かった後でいいかな──

『学びのベストプラクティス』(茂木健一郎講演) - YouTube

あるいは、勉強以外で言うと、人間関係だろうか。受験生活にはエネルギーが必要で、エネルギーのパフォーマンスには精神的支えが必要だ。でも、それだって学校をやめたらなくなるわけじゃない。学校でできた友達とは外でも会えるし、家に帰れば家族もいる。何より、美術系の予備校には新たに固有の人間関係がある。高校よりも価値観の合う人が多いかもしれないし、受験についてはより共通の土壌を持てるだろう。それに高校生(の歳)にもなれば、社会の中のもっと開けたコミュニティに参加することも難しくない。人間関係は努力より出会いだ。同じ歳や学力に固執する必要は全くない。

僕の話をすれば、そもそも高校に友達もいなかったし、家に家族もいなかった。そりゃ鬱になる。でも高3の春、予備校に行ったらすぐに友達ができた。異性の友達も。鬱も治った。2年間も高校という小さなコミュニティに囚われて四苦八苦していたのは愚かだったと思った。まもなくMENSAというコミュニティに入ると、僕はもはや凡ゆる人間と友達になれた──

 

制度上は行く必要がなく、むしろ受験で足を引っ張られるとしたら…それでも学校に行く意味って、何だろう?

 

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おそらく学校の強いところは、レールに乗っかってるだけで受動的にある程度のリソースが享受できることにある。しかしそれ以上のことはない。与えられるものに不満があるのであれば、レールから外れて主体的に走れるのであれば……

結局は冒頭の問いに戻る。君にとってその学校は善か?基準はあくまで当人の心、ほかにありはしない。受験というひとつのテーマに照らしても、いまいちど考えてみてほしい。君は今、高校に行くことを“選択”しているか?

 

学校をやめるのは難しい。

近親は君の学歴の損傷を危惧し、同調型の日本社会はレールからの逸脱をよくは思わないだろう。藝大の選考で印象が下がらないとも言い切れない。僕の場合は既に病気やら出席日数やら中学の前科やら実績が溢れていたから簡単だったものの、思い立ったようにやめます!というのは現実的ではないかもしれない。

それでも、成果の出ない責任を学校の忙しさに託ける現役生に、僕は擁護する言葉をかけられない。高校に行くという選択をしている(はずである)以上、それは言い訳として正しくないのだ。あるいは、藝大合格より目先の自意識や安寧を優先しているのだろう。いや、何も責めないよ。でもそろそろ自分の人生に正直でいたいよね。もう高校生なんだから──(笑)

 

 

 大学も中退しそうな(大西)より